ミムラのこころ
創業物語
1,念願の開業、そして後継者の戦死
〜創業者の辛苦〜
時計屋開業の夢も、彦一氏は養子の立場であり、当時の養父から時計店開業の許可を得ることが出来なかった。しかし、どうしても開業をしたいという夢は捨てきれず出身の赤坂の伊東家の応援で大正2年(1912年)開業を果たす。創業の場所は、当時の医者町(現在の霞町付近)であったが、大正の大水害で現在の本通へ移った。
彦一氏の長男・稔氏は、当時としてはハイカラとも言えるセンスの持ち主で、看板も当時では珍しい縦書を採用。ロゴマークとも言える名店表示をカタカナや英文字を表現豊かに操ることでセンスの豊かさを存分に発揮した。
しかし、その長男・稔氏も第二次世界大戦で戦死。戦後のミムラは、存亡の危機に見舞われることになった。
2,戦後の困難から復興へ
〜創業者の意地〜
長男・稔氏の戦死で、ミムラは祖父と孫という世代の橋渡しをする者もいない、老人と中学生の二人の男性のみで復興を果たさなければならなかった。廃業という選択肢もあったかもしれないが、渡す方の意地と、一方、渡される方の責任感以外のなにものでもない祖父と孫のエネルギーによってとりあえず店舗は再開することが出来た。
戦後はバラック建ての店舗で、商品はわずか16個。極端な物不足で、商品は配給によってしか廻ってもない。あれば、売れる。しかし、競合店の圧力はメーカーに商品の割り当て方針をも変えてしまう。商品が思うように入らない。また、ある業者はわずかばかりの入荷した時計を高く買ってくれるお客ばかりに売り歩き、法外な利益を得ていた。しかし、そこでも三村彦一は頑なに定価でもって申込み順のお客様へ淡々と販売をしていた。
もう少しうまく立ち回れと奨める周囲に、「悪いことをして店が繁盛し続けるわけがない」と断固として自分のポリシーを変えることは無かった。彼の言葉は、現在の市内の同業者の変遷をみれば、歴史が証明したとも言える。
戦後、「正直」を掲げて十数年、やっと地道に力をつけてきたミムラ時計店だが、次なる困難は盗難事件。店内の商品がすっかり盗難にあってしまい営業できなくなる大ピンチを迎える。
しかし、急を聞きつけてきたセイコーの異例とも言えるバックアップにより1600個の商品準備で営業を再開。急場を凌いだ。